2015年2月7日土曜日

白居易の詩の文姫

唐の名詩人・白居易(772年-846年)字は楽天の詩に蔡琰が関係する作品があります。
蔡文姫を詠った詩ではなく、とある例えで詩に残りました。
該当の詩は『白氏文集』巻8「吾雛」,巻36「談氏小外孫玉童」,巻53「餘思未盡加為六韻重寄微之」です。
時系列では「吾雛」と「餘思未盡,加為六韻,重寄微之」が823年、「談氏小外孫玉童」が837年の作品です。

時系列順で載せ、本文の前に詩の概要を説明します。
詩の訳の参考元は岡村繁著『新釈漢文大系 白氏文集』と『續國漢譯漢文大成 白楽天詩集』です。
『白氏文集』には著者自らが付けた註釈があります。ここでは文姫関連の自註のみ載せます。

○吾雛(白居易数え52歳の作)
白居易の二番目の娘・阿羅が数え7歳になった時のことを詠った詩。阿羅の別名は巻7「弄亀羅」より羅児と巻16「羅子」より羅子。長女金鸞は阿羅の生まれる前に早世した。のちの829年に阿崔という息子が生まれるが3歳で夭折した。
吾雛字阿羅,阿羅才七齡。嗟吾不才子,憐汝無弟兄。撫養雖嬌騃,性識頗聰明。學母畫眉樣,效吾詠詩聲。我齒今欲墮,汝齒昨始生。我頭發盡落,汝頂髻初成。老幼不相待,父衰汝孩嬰。緬想古人心,慈愛亦不輕。蔡邕念文姬于公嘆緹縈*。敢求得汝力。但未忘父情。
私の幼子は阿羅といい、やっと7歳になった。私に息子ができず、お前に弟と兄がいないのが不憫だ。甘えん坊でわがままな子に育てたけれど、物覚えが早くすこぶる聡明で、母の真似をして眉を描く仕草をしたり、父の私に倣って詩を詠ってみたりする。私の歯はぐらぐらで落ちそうだが、お前の歯は生え揃ったばかり。私の髪はすっかり抜け落ちたのに、お前の頭は髪を結えるようになったところだ。老人は幼子の成長を待つことは出来ず、父は衰えるがお前はまだ子供だ。遠く昔の人の心情を思うに、女児に対する慈愛はやはり軽いものではない。蔡邕は娘の文姫を気にかけ、淳于公は娘の緹縈*(テイエイ)の身を嘆いた。私はお前の助けを得ようとは思わないが、ただいまだに父としての情を忘れられない。
*緹縈は父・淳于意(前205年-前150年)が冤罪で肉刑を処せられるに及び、自分が奴婢になって父の罪をつぐないたいと上書した。漢文帝・劉恆(前203年-前157年)は娘の孝心に感動し、淳于意を許して肉刑を撤廃した。淳于意は息子がおらず娘が5人いた。末娘が緹縈。


○餘思未盡加爲六韻重寄微之(「余思未だに尽きず、加えて六韻を為す。重ねて微之(元稹の字)に寄す」)
親友・元稹(779-831)に送った詩。元稹も息子に恵まれず、正室・韋叢が生んだ5子のうち保子という娘だけが成長し韋絢に嫁いだ。晩年の829年に後妻の裴淑が男児の道護を生んだ。
海內聲華併在身,篋中文字絕無倫。遙知獨對封章草,忽憶同爲獻納臣。走筆往來盈卷軸,除官遞互掌絲綸。制從長慶辭高古,詩到元和體變新。各有文姬才稚齒①,俱無通子繼餘塵。琴書何必求王粲*,與女猶勝與外人。
君は天下の名声を一身に集め、これまで作った詩文は並ぶものがない。遠方で君が一人封章に向かって草していると思うと、私と君が同じく諫官として上奏していた時のことが思い出される。君と私は贈答しあった詩篇が巻軸に満ちあふれ、私は中書舎人、君は翰林学士の官僚に任命された。君が知制誥になってからの長慶年間、詔書の文辞が高古になり、君との唱和詩が多く作られた元和年間で詩風は改まった。お互いに幼い文姫がいるだけで、陶潜の息子の通子のような跡取りがおらぬ。我々は跡取りがいないからといって王粲*に琴や書を伝えようとする必要があろうか。自分の娘に与えるほうが赤の他人に伝与するよりましだ。
①白居易自註「蔡邕無兒,有女琰,字文姬
*魏志巻21王粲伝に、蔡ヨウが王粲に優れた才能があると感じて自身の蔵書をすべて王粲に与えたいと言った記録がある。本当に与えたかは不明。


○談氏小外孫玉童
唯一成長した実子・阿羅は835年に談弘暮に嫁ぎ同年女児・引珠を生んだ。その2年後に男児が生まれ、その子が数え3歳になった時の詩。
外翁七十孫三歲,笑指琴書欲遣傳。自念老夫今耄矣,因思稚子更茫然。中郎餘慶鍾羊祜子幼*能文似馬遷。才與不才爭料得,東床空後且嬌憐。
外祖父は70歳で孫は3歳。笑って琴や書に向かわせ伝え授けたいと思うが、私は既に老いぼれであり、孫はまだ物の道理がよくわからない。中郎蔡邕の才能や技芸は羊祜に受け継がれ子幼*の文章の巧みさは司馬遷に似ていた。この子の才能の有無ははかり知ることができないけれど、婿が死んでからはただ憐れみ愛している。
*子幼は前漢の楊惲の字。楊惲の父は丞相・楊敞で母は司馬遷の娘。司馬遷には息子がおらず娘に己の書籍を託した。


白居易の詩の文姫が何の例えか説明せずとも明確でしょう。
利発な娘の阿羅を文姫に見立てています。
白居易は自著『白氏六帖事類集』(原題は『経史類要』と『事類集要』)の「女(むすめ)」の【聞琴】で6歳の文姫が琴の切れた絃を言い当てる逸話を収録しており、文姫の幼少エピソードを知っていたようです。
その事も影響して幼い娘を文姫と同一視したのでしょう。
そして「餘思未盡加爲六韻重寄微之」では白居易と親友自身を男児に縁のなかった蔡ヨウと同一視しました。
他2首には蔡ヨウの他にも息子がいなかった淳于意と司馬遷をあげています。
年代的にはこの二人が蔡ヨウより早く生まれた過去の人物でいながら、詩では蔡ヨウの名が先に出ます。
この書き方から察するに、白居易は蔡ヨウへの思い入れが特に強かったと思われます。
なおかつ「談氏小外孫玉童」では外孫の例に能書家の羊コと楊惲をあげ、遠回しに自分の孫も過去の偉人のように祖父に似た後継者に育つだろうと期待する様子が書かれます。
その外孫は文姫に例えた阿羅が生んだ子です。
つまり『白氏文集』の世界観では文姫が羊コの母親になっているのです。
中国の詩を網羅するサイト搜韻談氏小外孫玉童の解説では「蔡ヨウにはただ一人の娘の文姫がいた」と書かれるため、この詩から受ける印象は「羊コは文姫の息子」でしょう。

この白居易の文集を愛読書にしていた人たちがいます。
それが昔の日本人、特に平安貴族たちです。
『白氏文集』は平安貴族の中で必修の教養になっていました。
清少納言の『枕草子』では「文は文集(=『白氏文集』)」と書かれ、文といえばその筆頭に出てくるほどのベストセラー詩集でした。
その他、学問の神さま・菅原道真の詩は白居易の影響を多大に受けたと言われ、楽天詩と似た表現の作品が多いです。
前述の「餘思未盡加爲六韻重寄微之」のスタイルを意識したと思われる詩もあります。
そんな風に昔の日本人は白居易の詩に親しんできました。
知識人階級の中では詩中の蔡ヨウ-文姫-羊コの三代にわたる能書家の家系は無意識に受容されていたのでしょう。
文姫のことを文芸作品で触れる平安貴族はいなかったとはいえ、意外なところで文姫の名前は日本人に広まっていたようです。
日本人に絶大な人気を誇った詩人がたまたま息子に恵まれず、その身の上を蔡ヨウに仮託したために伝わった文姫像です。
天下の白楽天先生がそう詠んだのだから、という風に昔の人々は信じていたのかもしれません。
無論、白居易に馴染みのない人の多い現代では通用しないでしょう。
あくまで一種の伝統または古い価値観です。後は各々がどう感じるかによります。

白居易は平凡な役人の家系の出身ながらも進士科に合格、試判抜粋科には首席で合格、天子自らが臨時に賢人を選ぶ科挙の才識兼茂明於体用科に次席で合格する(首席は元稹)といった、実力でエリート官僚になった人物です。
抜群の聡明さを持つ秀才が見做したことはそう馬鹿に出来るものではないと思います。文姫羊祜母説を根拠なしにバカにする人は往々にして見かけますけど。
先述の『白氏六帖』はいろんな史料の抜粋が載っています。実際のところ白居易一人でできた書籍でないにしても、歴史に対する見識があったのでしょう。
文献の余白を読み取って文姫は羊コの母である可能性を見出し、詩に詠んだと考えられます。
文姫羊祜母説を史料の誤読だとか完全なデタラメなどど断言できるほど荒唐無稽な説ならば、白居易は採用しなかったでしょう。

婉曲的ですけど羊コの母について触れた書籍は『晋書』以外で白居易の詩が最古かもしれません。
ちなみに現行の『晋書』が房玄齢(579年-648年)の主編です。白居易の時代から成立100年は経っています。
白居易は同書の羊コ伝を読んだ後で蔡ヨウ一家を詠む詩を作ったのでしょうか。
それとも唐代にはあって今は伝わらない伝承等に文姫が羊衜に嫁ぐ話があったのでしょうか。
今となっては何も窺い知れません。

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