説の根拠となる記録は、東晋の司馬紹とその母の経歴、そして卞后が産んだ曹彰の体毛です。
詳細は上記のリンク先で確認された上で、当記事を閲覧ください。
卞后が異民族の血を引く場合、正史の奇妙な記録に理由ができます。
その奇妙な記録とは、孫の曹叡が230年春に卞后の親と祖父母に封号を与えた時のことです。
太和四年春,明帝乃追謚太后祖父廣曰開陽恭侯,父遠曰敬侯,祖母周封陽都君及敬侯夫人祖母の周氏に「陽都君」の封号を与えました。しかし母は不在です。
後世の学者の中には、周氏は祖母でなく母だと言う人もいます。
この記録には祖父の卞広も名があがり、対となる祖母が登場してしかるべきですから祖母で合っているでしょう。
曹操も義理の祖父母の曹騰,呉氏に追尊が行なわれたため、卞后の祖父母も同様に位を授かってもおかしくありません。
記述の中に「母」の文字がないことから、卞后の母には触れなかった可能性があります。
魏志の后妃伝に立伝された皇后5名のうち、母に封号を与えられなかった女性は卞后だけです。
甄后の母・張氏は安喜君。
郭后の母・董氏は都鄉君(裴注『魏書』は堂陽君)
曹叡の毛皇后の母・夏氏は野王君。
曹叡の郭皇后の母・杜氏は郃陽君。
卞后の母は除け者にされました。
当時の魏に、片親にのみ追封されるケースはありました。
甄后の兄の孫娘・甄皇后(曹芳)は追封時に父が亡くなっていたために母だけ廣樂鄉君の封号を与えられました。
しかし230年時の卞后はどんなに若くとも60歳近くです。母も祖母もすでに亡くなっていたでしょう。
曹芳の甄皇后の例は当てはまりません。
卞后の場合は祖母に贈られた「敬侯夫人」がその夫たる「恭侯」と対応せず、息子の「敬侯」と対になることから、姓無しの母に贈られた称号とも読み取り可能です。
どちらにしても卞后の母の記録が不思議とありません。
没後の経過時間からして祖母の姓がわかるなら母もわかりそうなものです。
考え得る可能性は、敢えて存在を隠したことです。
卞后の母が生粋の異民族で、異民族に多い名前を持っていたとしたら、公に出さない理由になります。
漢民族の軽蔑の対象になる異民族の血を引くとなると、卞后の血縁者は格好がつきません。
異民族独自の姓はかなり独特です。
例として鮮卑族の姓を一部紹介します。
呼延、萬俟、吐萬、吐突、胡掖、慕輿、慕利、若干、普六茹見るからに漢民族ではありません。
このような姓を持つ近親者がいたら、その素性の説明をする手間が発生します。
史家にとっても省きたくなる存在でしょうね。
この論では、司馬紹の母が異民族だと正史に記録されたことと一見矛盾します。
同じ正史かつ隣接する時代の記録です。ですが両者は成立状況が異なります。
現行の唐の『晋書』は南朝宋の『世說新語』を参考文献の一つにして成立した正史です。
そして『世說新語』に掲載された多くの話は、正史に書かれなかった隠れ話の類です。
東晋から南朝宋にかけて存在した晋の正史に、司馬紹の母の記述がなかったために『世說新語』に収録されたと思しいのです。
その場合、司馬紹が異民族の血筋であることの隠蔽が行われていた事になります。無論、ただの噂話だった線は否定しきれません。
唐代は皇族自体が北方異民族の血を受け継ぐ環境だったため、司馬紹の出自を何の抵抗もなく『晋書』に組み込んだのでしょう。
以上が卞后の異説を後押しする解釈です。
卞后は金髪?という発案は大陸のものですが、当記事の内容は独自の発想です。
大陸では卞后が異民族、の主張があるのみで卞后の母が異民族、という方向までは話が進まなかったようです。
学者たちの研究対象が卞后以外の人物なので致し方ないことです。
こんな見解もあるということで、卞后を金髪女性に描くのも一興でしょう。
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