2014年9月27日土曜日

諸葛亮の妻・糜氏

明代の劇本に、黄氏以外の諸葛亮の妻妾が登場していたそうです。
記録は『曲海總目提要』巻34(以下、『曲海』)にあります。劇の内容自体は不明で、書評だけが残っています。
○七勝記 
 不知何人所作。按三國志載亮南征事甚略。孟獲七縱七擒見漢晉春秋。而擒之縱之之實亦不盡載。按亮出師表云。五月渡瀘。深入不毛。即指擒孟獲事。劇中多半原本演義。作者但取其情節可觀。亦不暇訂其眞僞也。五路進兵之說。後主傳及亮傳俱無之。不知何所據。亮妻黃氏。載襄陽記。糜氏亦無可考。 
 作者不明。内容は三國志に記載のある諸葛亮の南征に則っている。孟獲の七縱七擒は『漢晋春秋』に見える。だが孟獲を七たび捕え七たび放した経緯は悉く記録がない。諸葛亮の『出師の評』に言う、「五月に瀘に渡り、荒地に深く侵入した」とはすなわち孟獲を捕えた事だ。劇中は大半を演義を元とするが、作者は物語の見所のある筋のみを取り上げた。またその真偽を訂正する暇が無い(ほど荒唐無稽)。五路に兵を進める話は後主伝及び諸葛亮伝には書かれておらず、何を根拠としているかわからない。そして諸葛亮の妻といえば黄氏が『襄陽記』に記載があるものの、糜氏は史料がない
書評により、『七勝記』に糜氏という諸葛亮の妻が登場することがわかります。
側妾の線もありますけど、この文章は「黄氏以外の諸葛亮の妻は確認できない」と言いたげですから、たぶん糜氏は妻扱いだったのでしょう。
他に諸葛亮の縁者に糜氏という人の記録があるかわかりません。
この劇独自の架空人物か、闇に消えた野史に存在したのか、伝承の中の人か、今になってはそれも確認できません。
成立時期が明代の作品なので、例え完全な創作人物であっても民間伝承と同等以上の存在感があります。
どういう役回りで登場したのか気になるところです。
一つ推測できることは、時期的にこの糜氏が諸葛瞻の母だということです。
南征は225年のことで、諸葛瞻の生年は227年です。
諸葛亮が234年に兄・諸葛謹に送った手紙の内容より、当時数え8歳だと書かれたため逆算して227年生まれです。

ところで、現代では諸葛亮の妻を話に登場させるなら黄氏一択です。
なぜ他の女性を出す必要があるのか、いらぬ勘繰りをしそうなものですね。醜女はお呼びでない等
ここに明代の人と現代人との認識の違いがあるのかもしれません。

現行の演義では諸葛瞻の出陣の際、産みの母として黄氏が紹介されます。
この部分は明末清初の毛宗崗(1632-1709?)が書いた演義で挿入されました。なお、清王朝は一般的に1644年の成立です。
それ以前の演義には無く、黄氏が登場しません
明代成立の『七勝記』が当時の演義を元にして出来たと言われる以上、黄氏は存在しない人物です。
諸葛亮の妻に黄承彦の娘以外の女性が抜擢されても致し方ないことです。
黄氏はあまりメジャーな人物ではなかったようですね。

また、諸葛亮の妻の話題からは離れますが『曲海』で糜氏以外にも批判された点があります。
「五路進兵の史料的根拠はない」の箇所です。
てっきり演義の司馬懿考案・五路の大軍のことかと思ったのですが、違うようです。
現存する最古の演義といわれる、嘉靖本には五路の大軍の場面があります。お題は曹丕五路下西川です。
当時の演義にも司馬懿の五路攻めシーンがあった可能性は高いです。
きっと『七勝記』はそれを真似して他国侵攻の策を諸葛亮に発案させたのでしょう。
どうやら作者の手が込んだ作品だったようです。内容が伝わらなかったのが残念です。


以下余談です。
次の中国サイトには他所の転載文章で、諸葛亮の妾に糜氏が書かれています。
 PS2三国11隐藏武将

このページで転載されたサイト管理者は何の本を参考にしたのか不明です。
おそらくその本の著者は『七勝記』の糜氏を指したのでしょう。
著者か管理者が麋氏を諸葛亮の妾と断定して、その紹介がネット上に残ったようです。
今ある情報では糜氏が妾とは決まってませんから、そこは注意しておきましょう。

あと個人的なことで、黄氏の記録がない不自然さが麋氏の存在で解決できました。
中国人はわりと昔から創作話に寛容で、話をもとに墓を作ったり史書に載せたりしていました。
その影響で『花関索伝』の架空人物のはずの鮑三娘に墓があり、地方志に人物を記録する等の扱いをします。関索母の胡氏や趙雲娘で関平妻も清代の記録に載るようですが、彼女らも実在か疑わしい伝承レベルの人物です。
中国人のアイドル・諸葛亮は今も昔も人気者。その妻は『襄陽記』に記録があるので、大手を振って鮑三娘以上の厚遇を受けて当然です。
ですが、どうも黄氏は歴史ある建造物や記録媒体には縁がありません。像ぐらいはありますけど明らかに最近のものです。
墓はなく、伝承が豊富にも関わらず『襄陽記』以外の記録が見つからないことが不思議でなりませんでした。
もし、黄氏は清の三国志演義が出た後で注目された人なら納得です。
地方志などの記録は多くが清代以降にまとまったものですから、清になる前から伝わっていた情報が載ります。
清以前にはなかった話は記録に残る機会が乏しいのです。
黄氏のからくり発明家などといった逸話が、毛宗崗の多大なる称賛のくだりから得た創作だとしたら。歴史が浅くて史書に残るほどの伝承にはなりえないのでしょう。
黄氏の異常なまでに豊富な伝承の数から、かなり長いスパンで語られてきた人物のように思えていたのですが。
現代までの300年ほどの間に人気が出たという、他の三国人物より遅いアイドルデビューだったのかもしれませんね。
毛宗崗の演義が出る前の時期に黄氏の記録(『襄陽記』以外)があればこの仮説は否定されます。気力のある人は探してみてください。

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