2014年1月27日月曜日

    昂顒補足


    昂と顒の入れ替えの補足です。
    王璋の字が2種類ある理由を一つ挙げます。

    それは史家が皇帝の諱の使用を避けたことです。
    清の乾隆帝(1711-1799)の十五子・嘉慶帝(1760-1820)は初めの名を永琰といいました。
    のちのち改名して顒琰と名乗ります。
    改名の動機は主に、永琰のまま即位すると避諱の際に「永」が使えなくて不便だから、と言われています。
    常用漢字でない「顒」を名乗ることで国民の負担を減らした模様です。
    真意はどうあれ、在位時は名を顒琰とした影響で「顒」の使用が公にできなくなります。
    それゆえ清代の地方志は王璋の字を昂伯と記したのでしょう。
    「顒」の代わりに「昂」をあてたのです。

    清代の避諱で「顒」を改めて書かれた人には、元代の葉顒(1300-1374)がいます。
    彼の字は景南といい、清代に成立した地方志『南海県志』の中で「葉容」と名を変えて記録されました。
    清の人々にとって葉顒は数百年前の過去の人物です。当然、清の皇帝が生まれる前にできた記録があります。
    清以前の記録と照合し、明らかに避諱のため名を変更されたと言えます。

    一方、王璋は清代の人物ゆえに清以前の記録がなく、避諱が行なわれたかどうかはっきりしません。
    そのせいか王璋の字が2種類ある理由を言及した事例は見かけません。
    昂伯以外に顒伯の呼び方もある、という程度の認識です。
    そもそも林孺の墓誌にある王璋顒伯という人が王鐘鳴の子の王璋と同じ人だ、と指摘するのも当方だけでした。
    地元じゃ人気者だと評判なわりにネット上では学者人気がイマイチなようです。
    難しいことを考えず、複数の名称があるのだと思えば結構なのでしょう。
    当記事を閲覧された方もそのような認識をお持ちになったらそれで十分です。
    深入りすると列女も趙昂も関係ない話になりますからね。

    一見不要な補足記事を用意した理由は公平を期すためです。
    今のままだと、「人々は何の理由も無しに王璋の字の「昂」と「顒」を入れ替えた」ということになります。
    二字の混同が日常的にあったとし、だから趙昂が趙顒と書かれても当然だ、といった論拠にはしたくありませんでした。
    その主張は趙昂=趙顒を推す者には都合の良い解釈です。
    ただ、真偽の見極め方を知らない人を騙す方法でもあります。
    あまり好ましい主張の仕方ではありません。
    そうならないために考え付く可能性を隠さず紹介しました。

    もちろん、趙昂が趙ギョウと記録された原因の最終結論は史家の書き間違いです。
    王璋の件を書き間違えの実例として提示すれば直接の根拠にはなります。
    しかし、そのつもりで取りあげたわけではないということです。

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