2014年6月28日土曜日

取扱い注意の「姫」

三国志の無名の女性に「」と名付けるゲームが散見します。
おそらくその慣例の火付け役になった人物は2001年発売『真・三國無双2』の甄姫です。
無名の女性が○姫と表記される実例は古代の中国女性によく見かけます。

◆春秋時代
共姫……伯姫とも呼ぶ。共は夫・宋の共公の諡。王異が称賛した貞女。
夏姫……悪女で有名。夏は夫の氏(姓とは違う)
驪姫……悪女で有名。驪は出身の驪戎族の意味。
少姫……驪姫の妹。少は年少の意味。
長衛姫…斉の桓公(管仲と鮑叔牙の主君)の夫人。衛は出身国の名前。長は年長の意味。
少衛姫…長衛姫の妹。

他にも多数「姫」とつく女性がいました。
これらは姫姓の女性たちです。姓が名代わりになりました。同様に○姜な人も多いです。
そんな女性が多かったせいか、「姫」は古代において婦人の美称や美女の意味を持っていました。
「秦姫」は秦の国の美女、「斉姫」は斉の国の女性あるいは美女という風に。
しかし、これが皇族になると違う意味を持ちます。
皇帝や王の妾、あるいは後宮の女官、または太后に対する蔑称
3番目の用例は前漢の『漢書』巻97下外戚傳にあります。
哀帝崩,王莽秉政,使有司舉奏丁、傅罪惡。莽以太皇太后詔皆免官爵,丁氏徙歸故郡。莽奏貶傅太后號為定陶恭王母,丁太后號曰丁姬
【意訳】
 王莽(前漢を滅ぼし新の王朝を立てた儒家)が政権を乗っ取った時のこと。王莽は丁氏と傳氏の罪を上奏して丁氏傳氏一族の官爵を剥奪し、丁太后も宮中から追い出した。
 さらに王莽は上奏し、傳太后を貶して定陶恭王の母と号し、丁太后を貶して丁姫と号した

後宮でトップの座にあった女性を「姫」と呼ぶことが侮辱行為になりました。
それは姫と呼ばれる対象が位の低い後宮の女性だったからでしょう。
具体的な姫の地位は正史に載らず、推測の域は出ません。
『漢書』卷4文帝紀『史記』吕太后本纪の注釈にある漢代の『秩祿令』及び『茂陵書』には、姫(意味は女官、秩比二千石)が婕妤(列侯相当)の下で八子と七子の上と説明されました。
『漢書』 の記録をもとに皇后未満の位に姫を加えると次の通りです。
昭儀(諸侯諸王相当)、婕妤(列侯)、娙娥(関内侯、秩中二千石)、容華(真二千石)、美人(二千石)、姫(比二千石)、八子(千石)、充依(九百石)、七子(八百石)、良人(七百石)、長使(六百石)、少使(四百石)、五官(三百石)、順常(二百石)。無涓、共和、娛靈、保林、良使、夜者(百石)
*~二千石は高給から順に中二千石、真二千石、二千石、比二千石。石は俸禄(給料)のこと。

『史記』【外戚世家第十九】は「娙何(=娙娥)秩比中二千石,容華秩比二千石」と記録しました。
『史記』が正しい場合、容華の下にある女官の俸禄は『漢書』より下がるでしょう。
例え下がっても姫はそれほど底辺な地位ではないですね。中堅クラスです。
この注釈に見合う、姫の位に就いた女性がいたのかはよくわかりません
例えば前漢の劉邦の側室に戚姫薄姫といった名不明の女性がいますが、この姫は帝王の妾の意味で使われています。
姫という位を与えられた記録は見つかりませんでした。
皇帝の妾たちを「諸姫」と呼ぶように、単なる妾の総称です。

一介の妾が男児を産み、息子が高位に就いて母もまた尊位に上がることがしばしばありました。
そういった成り上がりの姫妾を参考に、「姫」は女官の中堅称号だと説明する書物もあった、というだけで、本来の「姫」は位を示す名称ではない気がします。
でないと正史に列挙される後宮女性の位の中で、姫を省く理由が説明できません。後述の後漢、三国時代も同様です。
そして先述の丁太后もまた初め定陶王・劉康の妾で、子の劉欣が帝位に就いたことで太后となった人でした。
丁姫の命名には「所詮お前は妾上がりだ」という風な王莽の思いがあったのでしょうか。

三国時代の姫の扱いはどうでしょう。范史巻10上魏志巻5の記録では、前漢の時と女官の名称がだいぶ入れ替わったことがわかります。
まず後漢の時はかなり官位の数を減らし、皇后の次が貴人、その下に美人、宮人、采女を置きました。
曹操の時は皇后の下に五つの位があり、上から夫人、昭儀、婕妤、容華、美人。
曹丕は更に貴嬪、淑媛、脩容、順成、良人の五つを増やし、曹叡は淑妃、昭華、脩儀を増やして順成を無くしました。
そのうちの貴嬪と夫人は皇后に次ぐ高位です。その下が諸侯王相当の淑妃。以下は、淑媛、、昭儀、昭華、脩容、脩儀、婕妤(中二千石)、容華(真二千石)、美人(比二千石)、良人(千石)。
秩千石より下は記載がなく、姫にも触れません。

魏志卷20には姫と表記された女性が載ります。
そのうちの【魏武帝諸子】は、卞皇后を筆頭とした位の高い女性の子から順に列挙します。
皇后の次が夫人、その次が昭儀、最後が姫です。
【魏文帝諸子】では甄皇后から順に貴人、淑媛、昭儀、またも最後が姫です。
男児を生んだ女性のみ並ぶ記録とはいえ、宮中女性の中で下位にあたる事は間違いありません。
前漢の丁太后の例も踏まえると甄后を甄姫と呼ぶのは大変失礼です。
甄后を甄姫と命名した方々に悪意はないのでしょうけど、史的に角が立ちますね。
存命中に皇后にも太后にも就いていないにしろ、曹丕の正室であり続けた人には不似合いな称号です。
ではなんと命名すれば良かったのか。それは次の記事の甄后の呼び名で紹介します。

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