2014年6月30日月曜日

    延長:取扱い注意の「姫」

    取扱い注意の「姫」にて、貶されて「姫」呼ばわりされた前漢の丁太后に触れました。
    彼女は定陶王・劉康の妾であり、正室の張氏には子どもがいませんでした。
    丁太后が子を産み、子の劉欣が皇帝になったおかげで太后となった人です。
    彼女に近い人物が三国志に存在します。
    それは孫和の側妾・何姫です。

    孫和には正室に張氏がいましたが子は無く、側室の何姫が孫晧を産みました。
    孫晧が帝位に就くことで何姫は太后となり、昭献皇后の称号を得ました
    その事が何姫本人の伝に記されているにも関わらず、呉志では「何姫」表記です。
    皇后表記が魏と蜀の后妃のみ適用されている史書とはいえ、后妃伝で「姫」扱いされた皇后は何姫ただ一人です。
    三国志を編纂した陳寿は何姫に含むところがあったのでしょうか?
    いや、何姫の場合は事情が違う気がします。
    以下に呉の妃嬪伝に立伝された女性を列挙します。

    呉夫人………孫堅の正室。皇后に追号される。
    謝夫人………孫権の一番目の正室。徐夫人が迎えられて間もなく亡くなる。
    徐夫人………孫権の二番目の正室。
    步夫人………孫権の側室。皇后に追号される。
    琅邪王夫人…孫権の側室。孫和の母。皇后に追号される。
    南陽王夫人…孫権の側室。孫休の母。皇后に追号される。
    潘夫人………孫権の皇后。最終的な正室。孫亮の母。
    全夫人………孫亮の皇后。
    朱夫人………孫休の皇后。のちに孫晧より景皇后の蔑称を与えられる。
    何姫…………孫和の側室。(正室は張氏)。太后になる。
    滕夫人………孫晧の皇后。

    お気づきでしょうか。孫権の妻だけが何人も挙げられています。
    その他、呉志に立伝されていない孫権の夫人には袁術の娘がいます。
    彼女は潘夫人伝とその注釈において「夫人」表記です。
    この袁夫人は側室の立場にありました。
    何姫も側室であり、同様に何夫人と表記して差し支えなさそうです。
    なぜ孫和の側室は姫で、孫権の側室は夫人なのか。
    おそらく、孫権の正室がころころ変わり過ぎたのが原因じゃないでしょうか。

    孫和の妃・張氏は、孫和が死を賜った時に夫に殉じて自殺しました。
    何姫は孫和の遺児を育てるために生き残ったので、孫和の正室になる機会がありません。
    一方、孫権の妻のうち、側室だけれど正室になった可能性がある人物がいます。
    それは袁術の娘の袁夫人と琅邪の王夫人です。
    この二人は歩夫人没後に立后の話が出た女性です。
    皇后に就く話が出たせいで、残忍な悪女によって非業の最期を遂げた人でもあります。

    生前の歩夫人は正室の徐夫人と十数年皇后の座を争い、その最中で亡くなりました。
    歩夫人没後に徐夫人が病死し、潘夫人が立后するまで正室不在の期間が生じます。
    この期間で側室だった誰かが繰り上がりの正室になっていたかもしれません。
    正確なことがわからないまま、正室を側室扱いしては少々まずいです。
    そこで孫権の妻は正室側室ひっくるめて夫人表記にし、他の皇帝の妻は称号を分けて書いた、その結果が何姫表記でしょうか。
    ここでの「姫」は側妾の意味で使っていて、特に貶したり身分の低さを表現しているわけではないんじゃないかと思います。

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