2014年7月7日月曜日

范史の悲憤詩

蔡琰の『悲憤詩』は范曄の『後漢書』(以下范史)に収録されました。
その詩は終始蔡琰の孤独な心情を詠みます。
『悲憤詩』の内容の影響で、蔡琰は蔡邕の一人娘というイメージが古来より付いて回りました。
そう思わせる詩句について触れてみましょう。

まずは一章の「既至家人盡,又復無中外」=「家に着くと家族は死に絶え、父母の親戚もいなかった」。
このシーンはあくまで故郷に身内はいなかっただけで、他の土地での生存を否定したわけではない、との読み取りはできます。
ですが、二章の冒頭はどうでしょう。
宗族殄兮門戸單」=「一族は滅びて門戸は一つだけになった」とあります。
一応、蔡邕の叔父の蔡質の家系は晋代にも続いていることが記録に載ります。
蔡質一族も蔡琰の親戚だと思ってよさそうです。
が、そこは郷里から呉へ12年間も行ったり来たりの逃亡生活をしていた一家です。
蔡琰には近しい親類という認識が薄かったのかもしれませんね。
それに蔡琰にとって蔡質の家系は蔡邕の傍系です。
蔡質の一族が繁栄しても蔡邕の直系が途絶えることに変わりありません。
この句は蔡邕一家の衰退を表現したのでしょう。
ここで気になる詩句は「門戸」です。門戸が一つとはどういう意味でしょうか。

「門戸」の意味を『三国志』巻18龐淯伝の注釈の使用例で確認しましょう。
使用箇所は、趙娥が亡くなった父・趙安のため、仇の李寿を討とうとするのを止める徐氏の婦の言葉にあります。
李壽,男子也,兇惡有素,加今備衛在身。趙雖有猛烈之志,而強弱不敵。邂逅不制,則為重受禍於壽,絕滅門戶,痛辱不輕也。原詳舉動,為門戶之計
「李寿は男子で、もとより凶悪な性格ですし、しかも今は身の周りを守備で固めています。趙さんに猛烈の志があるとはいえ、強弱に差がありますから敵うはずがありません。(李寿と)遭遇して倒せなかったら、また李寿から災いを受け、門戸は絶えてしまい、痛みと屈辱は軽くはありません。行動には気を付けて、門戸のために考えてください

ここでの「門戸」は趙安の家族,家系を指すでしょう。
この時の趙娥はすでに龐家に嫁いで息子を産み、弟三人が病死していました。
当時の風習では女性が他家に嫁げば他家の一員となるため、趙一家は断絶したと見做すことができます。
しかし、この徐氏の口ぶりでは違います。
女性であっても趙娥は趙一家の生き残りであり、趙家の存続のために仇討ちを諦めて生きるべきだと勧めました。
「門戸」は既婚女性も含めた家族を指すこともあるようです。
当の趙娥は、三人の弟が亡くなって既に「門戸」は断絶したと言い返しました。
趙娥の認識では男性こそが一家の後継者であり女の自分は家の存続を考えなくてよい、と思ったのでしょう。

趙娥的解釈では「門戸單」は蔡邕の息子が一人いることになります。
ですがそう考えると少々変な記録が出てきます。
范史には蔡邕が178年に投獄された時に書いた文言に「四十有六孤特一身」とあり、蔡邕には子がいないことを述べていました。
『後漢書集解』にはこの一文に注釈を付け「王鳴盛曰、邕無子故云、列女董祀妻傳、曹操素與邕、痛其無嗣」と説明されました。
范史の記録(曹操が蔡邕の後継ぎがいないことを哀れんだ)を根拠に、清の王鳴盛が蔡邕の息子不在を裏付けました。
そのため『悲憤詩』は蔡邕の息子のことを触れていないと見るのが穏当です。
一方の徐氏的解釈は「門戸」に女性も含みます。
これは作詩者である蔡琰を意味するでしょう。
表現を変えると、家族は自分以外亡くなった、となります。
この解釈が范史の他の記録と合わせても自然でしょう。

この詩は撰者の思惑からして、最もイチオシの蔡琰情報だったと思われます。
それゆえ、范曄は『悲憤詩』を蔡琰の真作だと見たはずです。違うと思えば除外されたでしょう。
范史の【列女伝】序文には収録した女性について、才気や節行に優れた者を選んだが一つの徳目に限定してはいない、と述べました。
蔡琰は複数回の結婚をしたため、貞操の面ではとても褒められた女性ではありません。
にも関わらず范曄が選出した理由は、貞操のマイナス面を覆すほどの文才があったからでしょう。
その証拠に、蔡琰の伝に長い詩句を丸々記載するという寛大な措置を行ないました。
著作物を伝に付随してある列女は他に班昭がいます。
班昭も文才に優れ、志半ばで亡くなった兄の遺業を全うして『漢書』を編纂しました。
班昭自身の著作物は『女誡』です。これは范史に七篇収録されました。
閨秀は閨秀らしく作品で他の貞女烈婦の経歴と張り合わせよう、というわけですね。
そういったキモの部分が『悲憤詩』です。
この詩を詠まずして蔡琰を語ることは、范曄の意図ではないでしょう。
蔡琰の逸話は見て詩を読んでいない方は少々もったいないことをしていますね。

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