2015年1月29日木曜日

    列女伝に載らなかった蔡氏

    前回紹介した明の『巵林』にある「文姫、明嫁董氏而終」について考えます。
    『巵林』では蔡文姫が董祀の妻のままで一生を終えた根拠を「『後漢書』列女伝は蔡琰を羊衜の妻とは称しないから」としました。
    そのため、文姫の姉妹が羊祜の母だと主張しました。
    この意見には欠点があります。
    『後漢書』の列女に聡明な姉妹がいる場合、列女伝はその事跡に触れているのです。

    同書には女史家・班昭の夫の妹・曹豊生、袁隗の妻・馬倫の妹の馬芝がそれぞれ姉の伝記の最後に紹介されました。
    曹豊生には才能と知恵があり、義姉の著作した『女誡』に対する意見を書いて発表しました。その文言には見るべきものがあった、と記載。
    馬芝は才能と品行がすぐれ、幼少時に亡くした親を想って『申情賦』を作った、と書かれます。
    このように、列女の賢い姉妹は『後漢書』列女伝に載っています
    この姉妹たちは単独で立伝するには文章量が足りないながら、血縁者の伝に付属して載ることができました。
    羊ドウの妻も賢夫人らしい逸話が『晋書』羊コ伝に残っています。
    「羊ドウの妻蔡氏」が世に知られた女性で文姫の姉妹だったなら、文姫の伝記の最後にその事跡が載ったはずです。ですが記録はありません。

    蔡氏の逸話とは羊ドウの前妻の孔融の娘が産んだ羊発を助ける話です。
    羊発と蔡氏の子の羊承が共に病気にかかり、蔡氏は二人助けるのは無理だと判断して前妻の子の看病に徹しました。
    そのため羊発は助かったが羊承は病死した、と言われています。
    当時前妻は孔融の処刑に連座して亡くなっており、その血筋は羊発に受け継がれていました。
    儒教観念では血脈の断絶を忌み嫌います。また産める我が子と、すでに亡くなった人の子では後者を優先して生かすべき、といった倫理観がありました。
    魏将・夏侯淵も裴注『魏略』に亡き弟の娘を生かして我が子を見捨てた逸話が載ります。
    蔡氏の行為は儒教的に賢明な判断であり、南宋の『野客叢書』巻11【蔡邕女賢】では蔡氏を絶賛する文章があります。
    そして異民族に嫁いで子まで産んだ節操なしの文姫が列女伝に載って、蔡氏を収録しなかった范史を大変なじりました。
    その称賛は唐代の『晋書』が成立した後のものです。
    蔡氏の逸話は皇甫謐などの列女伝に載った形跡はなく、漢魏晋の逸話を集めた『世説新語』の賢媛(賢い女性)篇に含まれることもありませんでした。

    賢女の中には『世説新語』にあって『三国志』裴注にも触れられる許允の妻阮氏、王経の母がいます。
    また、北宋の『太平御覧』にて他の現存する史料には収録されない列女が何人か確認できます。
    例えば孫去病の妻で戴玄世の娘、夏文圭の妻で劉景賓の娘、呉の孫奇(250年没)の妻で范慎の娘の范姫など。
    この3人は亡夫への貞節を守るため鼻を切り落としたと言われる貞女です。
    『太平御覧』は現行の『晋書』を出典に含む文献のため、蔡氏の記録は撰者が見知っていたはずです。
    にも関わらず収録されなかった理由は一言で表せば地味だったからでしょう。
    美談は美談でもインパクトに欠けます。蔡氏に比べ、先述の鼻切り貞女はより強烈でしょう。
    『太平御覧』と似た種類の唐の文献『芸文類聚』にも羊コ母のことは載りません。
    我が子を犠牲にして善事を成す話自体は同時代に他にもあります。橋玄しかり王異しかり夏侯淵しかり。美談の中でもありふれた話だったのかもしれません。
    ちなみに文姫の記録の抜粋は『太平御覧』,『芸文類聚』共にありました。

    唯一確認が取れた『野客叢書』の蔡氏称賛はつまるところ、当時激しかった蔡琰批判の延長です。
    これほど他の文献で無視され、記述量の少ない女性が列女伝で立伝できるとは思えません。
    主旨はあくまで文姫のこき下ろしでしょう。
    文姫がいなければ蔡氏が注目されることはなく、羊コが出世しなければ母の記録は羊徽瑜の紹介にある「母は蔡ヨウの娘」だけで終わっていたかもしれません。
    このように羊ドウの妻は有名人の家族がいることで話題に上る存在です。
    『後漢書』に載らなかった原因は本人の知名度の低さでしょう。
    誰も羊ドウの妻のことは取りあげず、文姫の逸話ばかりを持て囃した。その結果が今の『後漢書』です。
    文姫の伝の見出しが董祀の妻になったのも彼女のエピソードの影響でしょう。
    夫が罪を犯し処刑されるところ、文姫が大勢の賓客の前で曹操に説得をはかる場面があります。
    この時いた客たちが「蔡ヨウの娘は董祀に嫁いだ」と認知し、帰宅後に文姫のことを人々に伝えて逸話が知れ渡った、と考えられます。
    一方の羊ドウの妻は家庭内の出来事しかなく、外部に情報が届きにくい話です。無名で当然でしょう。
    そのため「『後漢書』列女伝は蔡琰を羊衜の妻とは称しない」ことが文姫に姉妹がいることの根拠にはなりません。
    羊ドウ妻の名前には列女伝に載るほどのネームバリューが無かったのです。
    曹豊生と馬芝は『後漢書』以外にその事跡が見つかりませんけど、蔡氏の知名度はこの二人未満でした。
    賢女の身内がいた班昭,馬倫の存在によってこのような結論に至ります。


    補足すると、列女の中にはその出自が不明なまま記録された人もいます。
    『後漢書』列女伝にて、出自がわからず姓名不明とされる女性は王覇の妻楽羊子の妻皇甫規の妻の3人います。
    その他、『華陽国志』巻4に名はあっても姓は不明の列女が5人います。馬妙祈妻の義趙曼君妻の華王元憒妻の姫、県吏(跂)妻の姫趙万妻の娥
    そして巻6に汝敦妻某とされる姓名不明の列女。
    列女の経歴すべてが列女伝に載る、なんて見方は幻想です。
    列女自身の記録さえままならない時があります。
    彼女らの行為に人々の関心が集まり、その生涯や家柄は話題に上らなければ記録には至りません。

    無姓の列女たちは、話題になるような家柄でないから記録されなかったわけではないでしょう。
    その根拠が皇甫規の妻です。彼女は唐代の書道の記録にて扶風郡の馬氏だとわかります。
    列女伝中、彼女自身が「私の先祖は代々清い徳で名声がある」と言い、同郡の名将・馬援一族の末裔かと思われる人物です。
    女性でありながら能書家だった教養の高さと、安定郡の名家の出身・皇甫規の正室になれた経歴より、良家の女性で間違いありません。
    お嬢様だったでしょうにその家格は取り沙汰されませんでした。
    彼女は「皇甫規の妻で董卓を罵った烈婦」として人々に慕われ、礼宗という号を贈られます。
    評判の人物の出自は民衆の関心の向く事柄ではなかったようです。

    羊ドウの妻は列女とは性質が違い、高い地位にのぼった子たちのおかげで歴史に残った人物です。
    その立ち位置は羊徽瑜の母、羊コの母といった羊家の女性としての身分が第一です。
    人々は蔡氏を「羊家の夫人」ぐらいにしか思わなかったでしょう。
    彼女が蔡ヨウの娘だとか、文姫か文姫の姉妹かを気にする人はあまりいなかったと思います。
    それが名無し、姓無しの列女たちが物語る当時の女性の在り方です。
    蔡氏の身内の司馬家も、蔡氏が高名な儒家・蔡ヨウの娘でさえあれば一族の名に箔がつきます。文姫か否かは取るに足らない問題です。
    細かい点にこだわると、文姫でないほうがありがたかったでしょう。
    皇后の母に4回も結婚歴があると風聞が良くありませんし、曹一族を降した司馬家にとって曹操に助けられた女性の名声は少々厄介です。
    偉大な羊皇后と羊コがいたのは曹操のおかげ、になってしまいます。
    晋を代表する皇后と将軍の存在が曹操の手柄されては、晋の人たちには面白くないかと思います。
    蔡氏が文姫ならばその事を外部に広めるメリットが乏しいのです。かと言って蔡氏が文姫の姉妹の時はわざわざ外部に知らせる情報がない。
    それで『後漢書』に蔡氏の逸話が載ることなく、『晋書』に蔡氏が文姫の何であるかを説明されることもなく宙ぶらりんな記録で落ち着いた、と推測はできます。
    当時の人が明確にしなかったことが現代の我々にわかるはずはなく、真相は定かではありません。

    事実はどうであれ、漢文や中国文化に精通した有名人が文姫を羊コ母だと見た形跡があります。
    唐の文献白居易の詩の文姫を紹介して、羊コの母の話を終えます。

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