2015年1月25日日曜日

『巵林』より、蔡邕一家について

列女伝の特徴では、列女は当時話題になった人生の一部分に焦点を当てられ、その生涯には言及されにくいことを述べました。
趙娥の記録にて、人生のハイライトだけが記録に残った趙娥のことを紹介しました。
晩年の事跡には触れられなかった蔡琰も趙娥などと同類の列女だと言えます。
しかし、その見方とは正反対の文献があります。
それは明の周嬰撰『巵林』にある匡徐の言葉です。
内容を分割し、後半部分は列女伝に載らなかった蔡氏に載せます。
該当の原文は以下抜粋。長いので冒頭部分のみです。羊コの母は文姫の姉妹だと主張します。
○匡徐  蔡琰 
青藤山人路史曰羊祜蔡邕外孫如此則邕之女又嘗嫁羊姓矣一嫁衞仲道一嫁董祀一嫁羊一適單于凡歴四男子,或邕更有一女耶非女琰耶或伯仲之女耶 
匡曰蔡琰傳曰陳留董祀妻者.同郡蔡邕之女也.名琰字文姬.明嫁董氏而終.故繫之董祀如更適羊則史.當稱太山羊衜妻者.陳留蔡邕女矣.且琰沒於南匈奴左賢王.非單于也
(明の徐渭による)青藤山人路史いわく、羊コは蔡ヨウの外孫である。すなわち蔡ヨウの娘は羊姓の者に嫁いだ。一度衛仲道に、董祀に、羊某に、単于に嫁ぎ4人の夫を迎えたことになる。あるいは蔡ヨウにもう一人娘がいて(羊ドウに嫁いだ者は)蔡エンでないのか。あるいは(蔡邕の)兄弟の娘(つまり姪)なのか。
匡(徐)が(徐渭の考えに対して)いわく、陳留董祀の妻は同郡の蔡ヨウの娘である。名は琰、字は文姫。明らかに董氏に嫁いで人生を終えた。ゆえに董祀の次に羊某と再婚したなら史書ではきっと太山羊衜妻は陳留の蔡ヨウの娘と称するだろう。それに蔡エンは南匈奴の左賢王に嫁いだのであって単于ではない。
匡徐は更に考察を進めました。要点は4つ。
1.もし文姫が羊ドウの妻であったら前妻の子と自身の子が病にかかった時、実子が亡くなったことを詩に書いたはずだ。
2.文姫が単于の閼氏(皇后)だったら異境の地で過ごしていたはずだ。泰始九年に濟陽縣君を追贈されることも蔡ヨウの蔵書を復元することもできない。
3.羊コらの母が蔡ヨウの兄弟の娘だったら羊コたちを外孫とは呼べない。
4.羊コの舅(母方の男兄弟)の子に蔡襲があり、『世説新語』の注に引く蔡充別伝では「蔡充の祖父蔡睦は蔡ヨウの孫」そして『晋書』蔡謨伝には蔡睦の子孫に蔡謨がおり、蔡ヨウの末裔は存在する。范史にいう「曹操が蔡ヨウに後継ぎがいないことを哀れんで使者を出し、金璧をもって蔡琰を帰国させる」とあるが、なぜ蔡ヨウ家が早くに没落したといえるのか。

その他、主旨とは異なる箇所で『悲憤詩』「家既迎兮當歸寧」を参考に「則邕妻尚存也」と述べました。
『悲憤詩』を後世人の作り物だとは思っていない方のようです。
詩の中に「家族は滅んだ」といった句があるのですが、その事には触れず。
本題とは違う話題なので仕方ないですけど。他の文姫姉妹が羊コ母だと思う方は姉妹がいても問題ないような詩の在り方を考えてみてください。

要点を順番に追っていきましょう。

1.我が子を悼む詩がない

詩が後世に伝わらなかったことと詩作しなかったことは異なります。
「三曹」と呼ばれた曹操・曹丕・曹植の大物でさえ、一部の著作物が現存しません。西晋王朝が崩壊する際、様々な書籍が失われたので致し方ないことです。
文姫関連でいうと曹丕の『蔡伯喈女賦序』が『太平御覧』巻806にあり、序文があるなら本文もあったでしょうに記録はなし。
その序文も『太平御覧』の珍宝部の璧の項目で、文中に「璧」の文字がある箇所を抜き出したものです。これが全文なのか不明です。
一部とはいえ、たまたま「璧」を用いたおかげで賦が収録されました。
この賦に「璧」がなければ、曹丕が文姫を詠む作品を作ったことも伝わらなかったでしょう。
このように詩は作ったらきちんと残るというものではありません。
子を悼む詩があれば根拠になりこそすれ、ないことが根拠になるとは言いがたいです。
歴史の記録とは違い、名文でなければ誰もあえて残そうとはしないでしょう。

2.単于の皇后

これは徐渭の表現に語弊がありました。
おそらく左賢王も単于も彼の中では同じ意味の言葉だったのでしょう。

3.外孫の表記

羊徽瑜の姉だと書かれた従姉の存在があるので、羊コらが蔡ヨウの孫でない可能性もあるにはあります。
従姉の件は『三國志』巻9諸夏侯曹伝の夏侯淵伝注釈の『世語』にあります。
夏侯荘が景陽(=羊)皇后の姉の夫だと書かれました。しかし巻25辛毗伝の注釈にある『世語』は夏侯荘の子・夏侯湛を羊耽と辛憲英の外孫だと書きました。
夏侯湛は憲英の伝記を著作しており、羊耽の血筋である可能性大です。羊ドウの孫ではありません。
こんな風に蔡ヨウ周りの血縁表記は少々怪しいです。
とはいえ、后妃はその母の出自をはっきりさせる傾向があります。
皇族に限らず、婚姻時に娘が正室の子か側妾の子か、生みの母の家柄などを聞いて娘の格を知ることがあるのです。
この儀礼を唐成立『礼記正義』昏義の疏(解説)部分に「問名者,問其女之所生母之姓名」と記載。
問名とは結婚する娘の生みの母の姓名を問うことだ、という解説です。
漢の皇族では後漢の伏完に華という公主が降嫁していながら(『後漢書』皇后紀第10下)、劉協の皇后・伏寿の母の名は盈だとされ(同書同紀)、伏皇后は漢皇帝一族の血を引かない娘だと判明します。だから劉協と結婚しても平気です。
何太后は本人の名が不明ですが母は興だと同書に書かれます。漢王朝では後宮入りする娘の母の名を問うことはよくあったのかもしれません。
魏晋の皇后の母は姓が伝わっても名は不明の人ばかりですし、母の名まで聞く婚姻は一般的じゃなさそうですが。
司馬師の正室・羊徽瑜は結婚時に皇族でないにしても、母が蔡ヨウの娘つまり羊ドウの正室の子だと相手方に伝わっていたでしょう。
蔡ヨウの孫だという記録は信憑性の低い『晋書』の中で信じてよい箇所だと言えます。
……といったことを提唱者自身が書いてくれればいいのに、なんでないのでしょうね。

4.蔡ヨウの末裔

これは提唱者本人が疑問視しています。
蔡豹伝に「蔡豹の祖先は蔡質で、蔡質は蔡ヨウの叔父である。祖父は蔡睦~」の記録があり、先述の蔡ヨウの孫・蔡睦の記録と食い違います。
「世説新語の注釈と話が違うのはなんでかな」と述べたきり、記録の異同については言及がありません。
この件には『世説新語』輕詆第26の箋疏に解説者の意見があり、羊コの舅とその子の蔡襲について仮説を立てました。
「思うに蔡ヨウに子があって(父より)先に亡くなり、かろうじて幼い孫が残ったのか。それとも蔡ヨウに元々子孫はなく、蔡襲親子が同族だったため養子になったのか。誰も知る術はない」
史料不足で結論は出せないといい、一方で蔡睦は蔡ヨウの子孫ではないと断言しました。
蔡睦を蔡質の末裔だという蔡豹伝の他、『元和姓纂』に蔡質の元孫(=長孫。長男の長男)に蔡克(蔡充)がいると書き、蔡睦が蔡ヨウの孫という記録は間違いだとします。

長々やってきても「文姫以外に蔡ヨウの子どもがいたのかわからん」が総評です。
どんなに調べても記録がないので結論は出ません。
冒頭にあった『巵林』の「文姫は董祀に嫁いだまま亡くなったはず」の見解も断言することはできません。
それについては分割して次の記事でやっています。結論が出ない話でもオーケーな方だけついてきてください。

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