2015年1月15日木曜日

列女伝の特徴

『後漢書』や史書の注釈にある列女伝は貞女賢婦を載せた伝記です。
列女伝の女性たちは、皇后など宮中の女性の記録とは異色で、女性自身の賢明さや行動力で名を残しました。
ですが列女の事跡を残す際に、女性の力だけでは尻切れトンボな記録になりがちです。
今回はその列女伝の特徴を考えてみましょう。列女伝関係で烈婦趙娥の記録『巵林』より、蔡邕一家について列女伝に載らなかった蔡氏を載せます。
列女伝の記述の比較対象で名前を出す女性は趙娥馬倫趙姫龐行蔡琰文姫の5人です。趙姫以外は『後漢書』列女伝の事跡を底本とし、趙娥は『三国志』の記録も含んで述べます。
まず前提として、列女伝は后妃伝および男性の列伝とは異なるものだと見ましょう。
正史と呼ばれる記録物は、ほとんどが皇族とその臣下関係の事跡が載ります。公的な記録官がいるため記録が残りやすいのです。
列女の記録は仇討ちを表彰された碑ができた趙娥のように、役人が一部残した記録もあるでしょうが特殊な例です。
多くの逸話は人々の口伝であったり、文字の書ける人が個人的に残した逸文だったりしたはずです。それを史家がまとめて編纂します。
それゆえ、列伝・后妃伝で人物の晩年および没年の記載が当然のようにあったとしても列女伝では稀です。
死に際が逸話となった人以外、死ぬ間際まで注目される列女は極わずかです。
列女伝に后妃伝,列伝と同様の記録を求めるのは不可能に近いでしょう。
鍾会の母張昌蒲の記録『鍾会母伝』や夏侯湛の外祖母辛憲英の記録『羊太常辛夫人伝』など、身内が制作した伝記が残る女性は后妃伝並みの経歴(と多大なる賛美)が伝わるのですが。これもまた特殊な例です。

身内が伝記を残したわけでなく、后妃でもない民間人の中で享年または没年が記録された人物はいます。
夫が役人のトップ・三公にのぼった有名人で妻も名声があった袁隗の妻馬倫は60歳余りで亡くなったと記載されました。
そのほか、『世説新語』注釈の列女伝にある孫権の趙姫は没年が赤烏6年(243年)と記載。ただし趙姫は後宮の人物なので后妃伝と似た性質の記録だと言えます。
馬倫は蔡邕に墓誌を書かれた人物でもあり、その文章は全後漢文巻77【司徒袁公夫人馬氏碑】で閲読できます。
その文章には光和7年(184年)に数え63歳で薨じた、とあります。没年より享年を引いて生年は122年。
190年没の袁隗より先に亡くなった点も記録のポイントです。
夫の名声が健在の時に没したからこそ馬倫は注目されたのでしょう。
夫の没後数年も経てば人々に忘れられていた可能性大です。
馬倫と反対の例に、馬倫と同じ出典の列女・姜詩の妻龐行がいます。
龐行は夫が孝行息子として民間でも朝廷でも有名、かつ彼女自身も孝女だったものの、夫が先に亡くなったのか死没に関して触れられていません。姜詩の死は同伝中に記録があります。

ここで列女伝の中で文章量も知名度もトップクラスな蔡琰について考えましょう。
文姫は父が当代随一の名士でしたが、夫は社会的地位および名声がパッとしない人物です。
そんな文姫の事跡の要点は、彼女が蔡邕の娘として匈奴に囚われ曹操に救い出されたこと、董祀の妻として各地の名士使者の前で夫の助命を願い出たこと、そしてまた蔡邕の娘として父の蔵書を復元し、自身の流浪を振り返る『悲憤詩』を残したことの4点です。
董祀の助命の件は曹操が董祀の処刑を中止させる使者を出しただけで、董祀が本当に助かったのか明確ではない少々いい加減な記録です。
適当な扱いを受ける董祀と早期に没した蔡邕を見るに、文姫の記録で主軸となる男性は父と夫ではありません。
列女としての文姫の庇護者は、蔡邕の友として娘の身柄を保護し、その夫の罪を許し、蔡邕の蔵書の復元を求めた曹操です。
曹操がいるから文姫の伝記が残りました
他の列女の夫的要素を曹操が担当しているわけです。
疑似夫の曹操が登場・関与しない部分は記録に残せないと言ってよいでしょう。
一見曹操が関わってなさそうな『悲憤詩』は、曹操が蔡琰を帰国させる原因と動機(蔡邕一家の全滅)の詳細が載っているので関係はあります。
この詩こそが文姫その人の名を轟かせた作品でしょうし、そのような作品が出来たのはすべて曹操のおかげです。
もし曹操か『蔡伯喈女賦序』を残した曹丕のような彼女を詩の題材とする詩人が健在の時に文姫が亡くなっていれば、彼女の死は盛大に取り沙汰され、晩年のことが列女伝に残ったかもしれません。
あいにく庇護者を失った後に文姫が亡くなったようで、彼女の晩年は不明なままになってしまいました。

蔡琰と同様、一時期の活躍が記録に残った女性のうち、後年身内の男性が出世しても晩年の記録が残らなかった人もいます。
それが趙娥です。この件は次の烈婦趙娥の記録で載せます。

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