2015年1月16日金曜日

烈婦趙娥の記録

列女伝の特徴の続きです。次は『巵林』より、蔡邕一家についてです。

趙娥は『後漢書』には龐淯の母と書かれ、息子の龐淯の列伝が『三国志』に載りました。
そして陳寿が龐淯伝のおまけに母の趙娥の事跡を載せました。内容は『後漢書』とほぼ同じです。
裴松之の注釈の皇甫謐列女伝には『後漢書』および陳寿の記述をさらに詳しくした文章があります。

裴注においても仇討ちのことのみ書かれ、それ以降の趙娥の形跡はさっぱりわかりません。
ただ、2015年1月現在のwikipediaや当サイトの後漢列伝の趙娥、または『後漢書』のみを閲覧された方は、趙娥の仇討ち後のことが書いてあるじゃないか、と思うかもしれません。
それは龐淯の母という肩書きです。
『後漢書』は趙娥の立ち位置を述べた後、龐淯のことには触れません。陳寿の趙娥伝も同様です。
この文章では、仇討ち時の趙娥は独身で、のちに龐姓の男性に嫁ぎ、産んだ息子が魏将となり後世「龐淯の母」と呼ばれた、という印象を受けるでしょう。
趙娥の伝記は復讐譚の状況だけを記録したわけではない、と思えそうです。

しかし皇甫謐の趙娥伝は違います。
趙娥が父・趙君安を殺された後、息子・龐淯が仇敵・李寿の言葉を聞いて母に伝える場面があります。
仇討ちを決意する時すでに趙娥は一児の母だったのです。
記録物上で龐淯の母と呼ばれる時期は龐淯が官位を得た後でしょうが、母であること自体は仇討ち時期も同じです。
皇甫謐の伝では趙娥が趙姓なのに「酒泉烈女龐娥親」と見出しを書いたり、晋の傅玄が『秦女休行』で趙娥のことを「龐氏有烈婦」と表現したり、とかく龐氏に嫁いだ女性だと強調されています。
その名称はおそらく民間で広まったものでしょう。
漢以降の史書では女性も父親の姓を優先して使用しますけど、民衆がその規則を遵守する義務はありません。

趙娥の別名を生み出す発端の夫・龐子夏は趙娥伝にちっとも出てきません。
加えて趙娥が男兄弟と共に復讐の決意をするくだりを考えると、龐子夏は当時亡くなっていたのでしょう。
未亡人となった趙娥と連れ子の龐淯が趙家に戻っていた時、復讐劇があったと見ると存在感なしの夫の説明ができます。離縁の場合、男児は婚家の後継ぎとして家に残るため死別が自然です。

皇甫謐版の趙娥の別名が龐娥「親」の点では、龐家の夫人よりも母親の意味があるかもわからないですね。
「親」は『礼記』奔喪より父母の代名詞として使われる名詞です。その用法は現代日本も中国も同じです。
龐娥親には、娥という名前の龐淯の母親との意味が込められているのかもしれません。
いずれにしても逸話の中の趙娥は母の身分であり、龐淯の母との肩書きは当時すでに認知されていました。

陳寿が息子の伝記を書くついでに趙娥のことも書く機会がありながら、仇討ち以外の経歴には触れられなかったところが列女の悲しいサガです。
一発屋の芸人のごとく、一世を風靡したところで数年経てば人々の興味関心を失います。
後々、輝かしい活躍を語られたとしてもその後の行く末は誰も知らない。
そんな哀愁漂う伝記が列女伝です。
当時の女性の立場を思うと相当な快挙ではあるんですけどね。一発屋でも歴史に残った偉人です。

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