孫登の妻といえば周瑜の娘が一般的ですけど、その前妻に当たる人のようです。
出典は三国志巻61,呉志の16、潘濬伝の裴注にある『呉書』の記録です。
权为子登拣择淑媛,群臣咸称玄父祉兄良并以德义文武显名三世,故遂娉玄女为妃焉。黄武五年卒,权甚愍惜之。
孫権が子の孫登のために淑媛(良い女性)を選ぶ際、群臣は芮玄とその父・祉と兄・良が3代に渡って徳・義・文・武の名声があることを称賛した。そのため孫権は芮玄の娘を孫登の妃にした。妃は黄武五年(226年)に亡くなり、孫権は甚だ哀れみ惜しんだ。孫登は209年生まれで241年の没です。芮玄の娘が先に亡くなっています。
周瑜の娘は早死した記録がありませんので、226年以降に孫登の後妻になったと見るべきでしょう。
周瑜が210年の没のため、娘がこの年に生まれたとすると226年時に数え17歳。
余裕を持って考えると、結婚時20歳を越えています。
呉の女性にしては遅い結婚に思えます。当時の婚姻時の年齢がわかるのは陸鬱生(数え13歳で結婚)だけですが。
魏には20歳以上での結婚記録があります。例えば賈充の後妻・郭槐は墓誌に「21歳で嫁ぐ」と書かれました。
また、司馬師の後妻・羊徽瑜は本人の生年(214年)と前妻の夏侯徽の没年(234年)を考慮すると、結婚年齢は確実に20歳を越えています。
後妻なら国は関係なく、20歳越えの結婚は普通なのかもしれませんね。
劉備の孫夫人も孫堅(没191年)を考えると結婚時20歳を過ぎていたでしょうし。
20を過ぎるまで、良い結婚相手を探すうちに時間が経ったか、記録には残らない亡夫がいたかしたのでしょう。
孫夫人の場合は本人の性格とその取り巻きのせいで、貰い手がつかないというのが実情だったのかもしれません。
蜀志趙雲伝には、孫夫人の連れてきた部下が法を守らず好き放題していた書かれ、劉備にしてみたら政略結婚とは名ばかりの罰ゲーム状態でした。
周瑜の娘はそんな破天荒な女性ではないでしょうけど、婚期をやや越した結婚をした可能性があるということが今回の発見です。
それプラス芮玄の娘も孫登の妻だということを心に留めておきましょう。
中国だと知られていますが日本じゃ全然知名度ないですからね。
当方も折を見て女性一覧に加えます。
(10月13日追記)
三国志巻53,呉志の程秉伝の本文に「黃武四年,權為太子登娉周瑜女,秉守太常,迎妃於吳」とありました。
陳寿の記録では225年に周瑜の娘が孫登と結婚しています。
潘濬伝の裴注と食い違いますね。どちらの年号が間違いなのでしょうか。
両方の記録を正しいと見ると、2通りの見方ができます。
1つ目は、周瑜の娘が225年に結婚し同年に早世したこと。
2つ目は、周瑜の娘は初め側室で、芮玄の娘が没した後に正室に繰り上がったこと。
1つ目のケースでは芮玄の娘もほぼ結婚と同年に死去したことになり、娶った女性が立て続けに早死しては不自然です。
それに孫登が241年で若死にするまでの間にいた後妻の記録がないことも変です。
2つ目のケースでは名家かつ重臣の娘を二号扱いするのは考えにくいです。
加えて裴注の記述元は『呉書』、呉の記録官の韋昭による記録です。
後宮の事情は『呉書』がより正確でしょうから、程秉伝の年号が間違っている可能性が幾分か高いでしょう。
周瑜の娘の死について記録がないことも考え、程秉伝の年号が誤りであり周瑜の娘は芮氏の没後に結婚したと見たほうが穏当です。
黄武の年号は8年=229年まであるので、226年から229年の間に周瑜の娘が孫登の妃になった、という推論で今回は終えます。
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