劉備の穆后の名が家系図にあるようです。劉備の系譜では見つかりませんが。
陈留吴氏 与赣闽台客家的历史渊源
http://www.kf.cn/blwb/html/2013-08/03/content_130460.htm
永兴吴氏宗谱
http://www.cnwu.net/zp/fp/wszp/201207/10664.shtml
呉莧が穆后の名前になっています。
その他、父は乾英といい母は司馬氏。二人とも子を残しての早死です。
永兴吴氏宗谱では、乾英は呉域の長子。呉域の妻は邰氏。
穆后の兄・呉懿の妻は裴氏。その間の二子が教、彦。
特別変わったことは書いてません。穆后の名が莧となっている資料はぼちぼちあります。
その名の情報源が家系図なのでしょう。
他にめぼしい事は、穆后の容貌を美しいと表現することぐらいです。
もとより貴人の相を持つと記録された人物です。
父を亡くして何の権勢もなく、裕福でもない女性が成り上がるとしたら、大抵は本人の美貌が武器になります。話術や策略でのし上がる人もいますけど。
穆后の本名は呉莧で美女、というのが今回の情報です。
あと同じ呉氏の家系図でもいい加減なことが書いてあるものが一つ。
http://www.cnwu.net/zp/zpnews/201012/8581.shtml
呉質の娘が司馬昭の妻に。司馬炎即位で呉太妃となったと書かれます。
史書上は司馬師の2番目の妻で、のちに離縁され后妃として扱われてません。
その他、孫権母の呉后に姉妹がいて、その女性は孫堅の妾と書かれています。もろ演義の設定です。
これは『江阴吴统宗源流考』に載るみたいです。
そして呉后の父の名が偳,または呉妁となっています。
宋成立の『太平寰宇記』巻91には父が呉煇または惴、字光脩と書かれるそうです。こっちが一般的。
ぱっと見た所そんな記録はなかったです。↓の81Pから112Pまでか91巻です。
http://ctext.org/library.pl?if=en&file=96139&page=81
父親の名前がたくさんありますね。一つ呉后に分けてほしいところです。
認知度の低い呉妁はいいんじゃないですか。
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