意外にも鍾会の妻子の記録がありました。情報元は以下のサイトです。
钟氏直系简表(二)http://www.afxqw.com/disp.asp?boardid=8&id=1236&move=pre
大系七十世-接系十二世钟繇之直系五代http://www.zhonghome.com/jiapu/pudie/20111231954.html
鍾会は『三国志』上「人質にできる妻と子がいない」(=單身無重任)などと言われ、生涯未婚を貫いた男かと噂されていました。上杉謙信みたいですね。
しかし鍾氏の家系図には妻子が載っていました。
妻の劉氏は夫人に封じられた、と書かれるため鍾会が謀反を起こす前に夫人の称号を得たのでしょう。
この劉氏はおそらく早世しました。
劉氏没後、後妻を立てずにいたら「鍾会は独身」発言をされてしまった、と説明できます。
子どもについては推測が難しいです。
「無重任」は人質となる子がいないことです。
呉の国では武将の人質は妻と幼な子だった様子が『三国志』巻48孫晧伝の注釈『捜神記』に書かれます。
該当文は「搜神记曰:吴以草创之国,信不坚固,边屯守将,皆质其妻子,名曰保质。童子少年,以类相与嬉游者,日有十数」
人質になっている子同士が遊んでいた、とは内情を考えるとなんだか可哀想な気がします。
呉の例を参考にし、当時の鍾会の子の中に幼な子がおらず、人質を提出しなかったのでしょうか。
子が人質として拘束されなかったとしても、父が謀反を起こせば逮捕されて処刑されるでしょう。
ですが処罰を受けた記録があるのは鍾会の兄の子と孫だけです。
処罰を決めた司馬昭は「峻、辿兄弟特原,有官爵者如故。惟毅及邕息伏法」=「峻、辿の兄弟は特別に許し、官爵あるものは元通りにする。ただ毅と邕の息子は法に伏す」と述べました。
鍾会の子らは官位に就いていたから免罪になったのでしょうか。
それとも国外に住んでいて逮捕されず、難を逃れたのでしょうか。
史料不足でこれ以上のことはわかりません。
子どもに関しては正史に載らないので正誤の確認が取れませんが、以下鍾会の十子です。鍾毓の子と共に『長葛县志』に載るそうです。未確認。
钟逸 钟会长子。官居 银青光禄大夫。
钟贺 钟会次子。官居南康郡太守。
钟设 钟会三子。官居弘农郡太守。
钟叶 钟会四子。官居河东郡太守。
钟招 钟会五子。官居太常博士。
钟阳 钟会六子。官居宣赞舍人。
钟响 钟会七子。官居江南太守。
钟腾 钟会八子。未官居
钟秀 钟会九子。累官参军、关内侯。
钟颂 钟会十子。未居官。
「未居官」は官位に就かなかったことを意味します。
公に勤めなかったか、幼い頃に亡くなったかしたのでしょう。
魏志鍾会伝には「其以會為司徒,進封縣侯,增邑萬戶。封子二人亭侯,邑各千戶」とあるので実子がいたとしても間違いにはなりません。養子だという解釈もできますが。
そして兄の鍾毓の子は「穎、顧、朝、經、誥、隆、建、駿、邕」の9人が家系図に載っています。
鍾会伝に「會兄子邕,隨會與俱死,會所養兄子毅及峻、辿敕連反」とあり、鍾邕は合致します。
鍾繇伝付属の鍾毓伝には「景元四年薨,追贈車騎將軍,諡曰惠侯。子駿嗣」と鍾駿の名前があがるので、これも合っています。
さらに、鍾会の二人の兄・瑟と邵の子も記載があります。
家系図上は鍾会の弟になっていますけど、鍾毓の字稚叔(=三男?)と鍾会の字士季(=末っ子)から考えるにこの二人が鍾繇の長男と次男です。
钟逡 钟瑟长子
钟山 钟瑟次子
钟豫 钟邵长子
钟宝 钟邵次子
鍾繇伝には「子毓嗣。初,文帝分毓戶邑,封繇弟演及子劭、孫豫列侯」と記載があり、鍾繇の子に鍾邵、孫に鍾豫がいるため、これも合致。
魏志にあって家系図にいない人物は毅、峻、辿の三人です。
ひょっとすると、峻、辿は瑟の子の逡と山のことかもしれません。部首違いで旁(つくり)は同じです。
問題は鍾会の養子の毅です。字形が近い漢字さえ家系図には載りません。
ここまできたら鍾毓の子の誰かでしょう。
家系図では鍾毓の次子・顧と九子・邕に官位の記録がないので、鍾顧の可能性が高そうです。
鍾会の息子は全然史書に出てこないですね。
家系図には鍾会の九子の鍾秀(または琇)が勉という子をもうけたそうですが他の史料では見つかりません。
大罪人の血筋だと知られれば名声がガタ落ちするので、伏せられたのでしょうか。
家系図の内容を史書にもれた記録と見るか、後世の作り物と見るかは各々の判断に任せます。
0 件のコメント :
コメントを投稿