2014年10月12日日曜日

王祥の家系-満寵の妻

『晋書』に立伝された王祥の系譜に、山陽の満寵に嫁いだ王仁の娘(以下王氏)が記録されました。
太原琅琊三槐王氏源流http://www.wwdoa.com/2013/0124/5937.html
王羲之家世第三篇第三章王羲之家族的近祖(19-31世)
http://www.wwdoa.com/2014/0403/14832.html
《太原王氏》(连载14)http://www.wwdoa.com/2013/0124/7010.html

曹操に仕えた満寵は山陽郡昌邑の人てす。王氏の夫と本籍地は同じです。
しかし満寵の字(伯寧)や官位などは記されていません。同じ名前の赤の他人の可能性もあります。
情報不足により、王仁の娘が満寵と同年代の人であるか確認します。
もし満寵より年長であれば他人確定です。
王氏の関係者の記録から生年を推測しましょう。

まずは王祥についてざっくり説明します。
王祥とは実母が早死し、継母の朱氏に虐待を受けた人です。
継母のいじめに遭いながらも、健気に母に従った孝行息子で有名です。
継母の実子・王覧は兄に似て心優しく、母の仕打ちから王祥をかばい続けました。
この兄弟は親に尽くす子と兄に尽くす弟ぶりを称賛されました。

補足で、王祥の実母は上記リンク先と『世說新語』の注釈『王祥世家』で山陽郡高平の薛氏となっています。満寵と同じく山陽の人ですね。

次に『晋書』巻33に記載された王祥の血筋についてまとめます。
祖先は漢の諫議大夫・王吉。祖父は青州刺史・王仁。父は無官の王融。異母弟に王覧(206-278)
王覧の生没年は本人の伝記に記載があります。咸寧四年=278年に亡くなり、享年は満72歳。
この王覧の子孫が書道家の王羲之です。

上記リンク先の世系では次のようになっています。
王吉-王駿(次男)-王崇-王遵-王音(次男)-王仁王融王覧
王祥伝の家系情報と同じですね。
なお、今回利用する家系図は王羲之の直系をメインに据えてあるため、王祥は傍系扱いです。

王祥の祖父・王仁には息子が4人いて、四男が王融です。上の兄の名は誼、睿、典。
王仁の妻は茂才の鄭元の娘で、賢夫人だったそうです。上記リンクの上から3番めでは違う人になっていますが今は置いておきます。
満寵に嫁いだ王氏は王仁の娘、つまり王融の姉妹です。王祥にとってはおばですね。
この王融の生年がわかれば王氏の生年も把握できるでしょう。
家系図には王融の享年が数え58歳と載っています。しかし生年は不明です。
ここは王融の子どもたちの記録も合わせて推し量ってみましょう。
同家系図の王覧は建安十年=205年生まれになっており、この生年を参考にします。

王祥は泰始四年=268年の4月に病死しました。
伝では泰始五年の没ですが、同伝に司馬昭の王夫人が亡くなった翌月の没だと書かれるため泰始四年が正しいです。
王祥が亡くなる前に自身を85歲だと述べた記録があり、268年から満84歳を引いて184年生まれです。
王隠の『晋書』には享年89歳だと書かれますが、本人の言葉のほうが信頼できるでしょう。
仮に王融20歳で王祥をもうけたとすると、王融の生年は164年です。

次に、王祥伝付属の王覧伝には王融が没した記録を見ます。
記録の構造上では、王覧が妻を娶った後に亡くなっています。
王融が没する記述の直前に、朱氏による王祥の妻いじめに王覧の妻(系譜では金氏)も共に耐えたとの逸話が載るからです。
王覧は205年生まれとし、仮に王覧18歳の時に妻いじめがあったとすると223年。
その年に王融が満57歳で亡くなったと考えると、王融は166年生まれです。
184年生まれの王祥をもうける際は満18歳。可能性の範囲内です。
これより更に5年王融の生年を早めると、王覧の最長結婚時年齢が満13歳。
数えでも15歳未満での結婚となり幼すぎて無理があります。
王融は160年代半ばの生まれと見ましょう。
その姉妹も同じか、阮共の末子・阮侃の妹(阮氏女)を例にとって更に年少の線も考慮します。

さて防戦のスペシャリスト・満寵の生年はどんなものでしょう。
わかっている数字は没年242年です。
238年に高齢を理由に戦線を退いたので、この時に結構なお年を召していました。
引退する時の標準的な年齢はいくつでしょうか。
老参謀の印象が強い程昱は、曹操が馬超討伐に向かった後に引退表明したそうです。
潼関の戦いのあった211年時は程昱満70歳。
満寵も引退時に程昱と同程度の年齢だったとしたら、238年に70を引いて168年です。
その他、満寵の若い頃の記録も見ます。粗々まとめると次の通り。
満17歳で郡の督郵になる→郡内の暴徒を処罰→高平令の代行をする→郡の督郵の汚職事件を糾弾し処罰。その後官位を棄てて帰郷→曹操が兗州に臨む時(192年?)に招聘を受けて従事になる
何年の経過があっての事跡なのか不明です。初めに最短になりそうな1年間隔で期間を空けてみましょう。
督郵17歳-18歳で暴徒退治-令代行19歳-退職20歳-21歳で曹操配下
曹操が兖州に入って満寵を召し抱えた時が192年で、その時の満寵が21歳としたら、171年の生まれです。
たいぶ慌ただしいですね。次は3年ずつ間隔を空けましょう。
督郵17歳-20歳で暴徒退治-令代行23歳-退職26歳-29歳で曹操配下
192年時に29歳だと、163年の生まれです。荀彧と同年です。
引退時が75歳で享年が79歳になります。司馬懿の弟・司馬孚も75歳で蜀軍防衛の指揮を執っていたので、ありえる範囲です。
満寵の生年は大体160年代でしょう。163~168年がちょうど良いくらいです。

以上により、満寵は王融とほぼ同年代だとわかりました。
王融の姉妹が嫁いだ相手は曹魏の満寵で決まりです。

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