2014年10月20日月曜日

明代の関興妻と張苞妻

明代の物語『双忠孝』に関興と張苞の妻が出てきます。主役は関興張苞です。
http://wagang.econ.hc.keio.ac.jp/~chengyan/jushuo/index.php?%E6%9B%B2%E6%B5%B7%2F%E9%9B%99%E5%BF%A0%E5%AD%9D
上記リンク先の『曲海』ではこの物語の作者は不明です。
他のサイトでは撰者が明の劉藍生という人になっていました。確認用→http://58.132.9.109/refbook/detail.aspx?recid=R2006061290001891&db=crfd
呉に討たれた父の仇を討つため、関興張苞が活躍するのをメインに据えた作品だそうです。原本は逸失。あらすじだけが残っています。
演義をもとにしつつ正史も取り入れてある劇だと評価されました。

作品中、関興の母は平夫人と呼ばれ、関興の妹は玉貞と名付けられました。
この妹は孫権が人質用に息子の縁談を申し込んだ関羽の娘です。以下物語後半の概略。
関羽の部下だった麋竺と傅士仁の投降により、関羽夫人と娘は呉の呂蒙に身柄を渡されました。
呂蒙は玉貞を孫権の世継ぎの嫁にしようとします。
そこで玉貞は大いに罵り、自ら首をはねて亡くなりました。女性は死んでなんぼの中国らしい展開です。
その後関羽が敗死し、義兄の死に怒って出陣した張飛も范姜,張達に寝首をかかれて亡くなりました。
父の死を聞いた関興と張苞が軍を率い、呉軍を蹴散らし潘璋を討ち取り、范姜,張達を捕縛し、関羽夫人と張飛の首を奪取して帰国する快挙を成し遂げました。
劉禅が蜀漢の主君となった時に関興,張苞に爵位が与えられ、関興には趙雲の娘が、張苞には馬超の娘が妻として娶わせられ、めでたしめでたし、と終わります。

関羽,張飛が演義における五虎将のため、その他の五虎将の娘と息子たちが結婚する結末になったのでしょう。
黄忠の娘が選ばれなかったのは多分、黄忠の老将の印象が強く、世代的に二世たちに不釣り合いだと思われたのでしょうか。
趙雲も結構年食ってるはずですけど、イメージは重要です。

地方志(江陵县志)に載る、関平の妻で趙雲の娘という人物はこの物語をもじって出来上がっていそうな気がします。
趙雲の娘が関羽の息子に嫁ぐケースが被るとは、どちらかが被せたんでしょう。
成立年代は地方志のほうが後ですから、怪しいのは地方志です。

張苞に嫁ぐ馬超の娘も少し考えてみましょう。
婚姻時期は劉禅が即位する223年。馬超の蜀軍参入の時期が214年
馬超は冀城の戦で妻子を殺され、張魯の元に預けていた妾と子を放置して蜀に来ていました。
その後妾の董氏は閻圃の妻になり、子は張魯の手にかかって亡くなりました。
蜀に住む馬超の子どもは馬超が蜀に来てから生まれたはずです。
つまり214年より後の生まれです。劉禅(207年生まれ)の弟・劉理に嫁ぐ馬超の娘も夫の年齢からして、生まれは215年以降です。
223年時に張苞に嫁ぐ時には10歳未満の幼な子なので無理のある話です。
現実的な設定にする場合は馬超でなく黄忠の娘が無難でした。

その他、明の小説で1609年刊行の『続三国演義』という、演義の続編にあたる作品に張苞の妾が登場しました。該当箇所は以下のサイト。
第二回 二贤合计诛邓艾http://www.guoxue123.com/xiaosuo/0003/xsg/002.htm

張苞の妾は李氏といい、一人の子を産みました。張賓,字は孟孫といいます。
妊娠の際に見た夢に、仙人の呂洞賓から玉柱を受け取ったためにこの名が付いた、という設定です。
呂洞賓は後漢・三国時代より後の時代の人です。時代考証は無視した脚色です。
明代の人にとっては古代の人間なので、こういう話ができたのでしょう。

以上が明時代に語られた関興と張苞の妻の記録です。
蜀漢の人々は根強い人気があるため、その家族もいろいろと創られたようです。
当記事で紹介できた創作女性は、関興の妻趙氏、張苞の妻馬氏、貞女に昇格された関羽の娘玉貞、張苞の妾李氏の4人です。

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