2014年10月4日土曜日

程昱の家系-応氏と許氏

程昱の家系図が見つかりました。
ここの8Pに程昱と昱父、昱子と妻の姓の記録あり。程昱の名が「元昱」になってますが気にしないでください。置き字のようなものです。
程氏受姓譜図http://www.docin.com/p-117962712.html

妻のことは載らない記録がこちら。
中华程氏http://cgzf.net/jxcs/
浯溪程氏重修谱:元谭公宗昱还是宗普http://www.chengjiapu.com/forum.php?mod=viewthread&tid=8242&extra=page%3D1
《皖江程氏宗谱》简介及世系http://10000xing.cn/x193/2012/1105153318.html

程昱の父が程奢。曹操と袁紹が河北で争っている時に、一族を引き連れて山東東阿に避難していたそうです。200年あたりまで存命した模様。
程昱は141年生まれで220年没。仮に親との年齢差が20歳だと考えると、その父もかなり長寿だったようですね。
妻は汝南応順の娘。長子は程起で次子が程昱。
程昱の妻は許氏。子は三子。長子は武、字道員。次子は謹、字道富。三子は建または延、字道福。
三子の妻は京兆の杜氏。子は程暁。

程昱の母の応氏は十中八九、河南伊の応順・字華仲の娘です。
応順は『後漢書』巻48に、応奉・字世叔という汝南南頓の人の曾祖父だと書かれました。
その略歴には和帝(在位88-105年)の時に河南伊と将作大匠に就任したことが載ります。
将作大匠は宮殿や陵を造る、早い話が建築家です。
応順の息子は10人いて皆才能と学識があり、次子の叠は江夏太守に、叠の子の郴は武陵太守になりました。この郴が応奉の父です。
『後漢書』同巻の応嫗という寡婦の記録に続く注釈には、更に系図が連なります。
応奉の子が劭で車騎将軍掾(じょう)になり、応劭(字仲瑗)の弟の珣が司空掾。応珣(字季瑜)の子は瑒で曹操により丞相掾に任命されました。
応瑒は字德璉、建安七子の文人ですね。曹植や建安文学を調べる人には馴染みの人物でしょう。
日本のwikipediaでは応瑒の家族構成がメチャクチャ(兄が応奉で甥が応劭)になってますが中国のほうは『後漢書』通りです。

長々応順の家系を紹介しました。
結論、程昱の母はいいとこのお嬢さんのようです。

もう一人、応順の妻のことを載せます。もとは汝南の許敬の妻でした。
『永楽大典』の【東漢書】に
应顺,字华仲,汝南人,少与同郡许敬善,敬家贫亲老无子,为敬去妻更娶。位将作大匠。
『太平御覧』人事部48の交友二の『東観漢記』に
又曰:应顺,字仲华,汝南人。少与同郡许敬善。敬家贫,亲老无子,为敬去妻更娶。
応順字華仲は汝南の人。若い時から同郡の許敬と仲が良かった。許敬の家は貧しく、親戚は老いた者ばかりで子がいなかった。そのため許敬は妻を離縁し、応順は離縁された妻を娶った。
許敬の婦は子を産まなかったそうです。無子は七去の一つ、当時の離婚理由の代表です。
この記録はしばしば子を産まないことで離縁された女性に関する研究に取り沙汰されます。
思うに許敬夫婦が離婚した最大の理由は、夫側の経済面の問題でしょう。
少しでも食い扶持を減らす、あるいは妻の身を案じて他の男性に嫁がせるといった判断です。
もし子がいないことが一番の離婚原因なら、「貧乏で親族が老人だけ」という家庭状況は書く必要がありません。
許敬の困窮ぶりを知っていたからこそ、親友の応順が彼の妻の面倒を看たのでしょう。
この許敬の婦が応順の妻です。そして程昱の妻も許姓です。
程昱の許夫人が舅の友人の親戚だったら面白そうですね。

他に応順の親友の許敬と思しき人の記録が残っています。応順の記録には彼の字が載ってないので、同姓同名同じ出身地の他人の可能性もあります。
この許敬は応順に似てお人好しです。

『太平御覧』人事部48の交友二に引く謝承の『後漢書』に
又曰:许敬,字鸿卿,汝南人。与同郡周伯灵为交友。伯灵早亡,卿育养其子。
許敬字鴻卿は汝南の人。同郡の周伯霊と交友があり、伯霊が早死すると伯霊の子を(引き取って)育てた。
そしてこの許敬と同じ人の記録が『後漢紀』に載っています。
三公の司徒まで登りつめた許敬です。129年に任を解かれました。
許敬字鴻卿,汝南平輿人也。為吏有誣君者,會於縣令坐,敬拔刀斷席曰:「敬不忍與惡人連席。」由是知名。舉茂才,除南昌令。以土地卑溼,不可迎親,親老,則棄官歸供養。辟司徒府,稍遷江夏、沛相〔一〕,自光祿勳入為司徒。敬以臧否為己任,仕於和、安之間,當竇、鄧、閻氏之盛,直道而進,無所屈撓。三家既敗,多有染汙者,敬居然自適,引謗不及己,當世以此奇之。
許敬は字鴻卿、汝南平輿の人。~中略~茂才に挙げられ、南昌の令の任は解かれた。土地が低くぬかるんでいたため(次の赴任地に)親族を迎えることができなかった。親族が老いれば官位を棄て故郷へ帰って面倒を看た。(のちに)司徒府に招かれ~後略~
鴻卿と応順の友人が同じ人物なら、妻と離縁した時期は老いた親族を養っている時でしょうか。
後々司徒に就くとはいえ、初めは駆け出しの役人なので退職後の生活費は苦しかったのでしょう。

そして鴻卿の子は許訓、その子は許相で、三人とも三公の地位に就いたと『後漢書』許劭伝に書かれました。
許劭字子将は許敬の同族。従兄の許靖字文休と共に人相見で知られています。劭が曹操を乱世の奸雄だと言った人です。
許敬の家系も結構繁栄していますね。

程昱の家系から許劭まで話が飛ぶとは思いませんでした。
程昱の母が応順の娘、妻が許氏というのが当記事の主な情報です。


応順にはもう一人、妻の記録があります。
『捜神記』に史書と同じ話が載るので、知ってる人は知っているはず。またの機会に紹介します。
多分、こっちが程昱の祖母に当たるかと思いますがあまり根拠はないです。

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